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大正14年創業 豊橋の塗装工事・防水工事の専門店

TEL. 0532-31-8035

黒柳塗装店の物語初代〜二代目、三代目現社長〜長女まで

初代

大正14年創業の黒柳塗装店

88年間(平成25年現在)も地元 豊橋で塗装の仕事をしています。
今では豊橋で一番古い塗装屋となりました。ここで修業した職人さんが、たくさん独立しています。

これは、現在の豊橋市にある松葉公園の北西の角にあった 初代の黒柳塗装店の写真です。

開店っぽいですが、ひい婆様のお葬式の時の写真で、みんなが入れるように 扉がすべて外されているところです。
(全景の写真がこれしか残っていませんでした・・)

当時、ここに住んでいたのは、

この、ひい爺様(治三郎)とひい婆様(おかね)

それと 私の婆ちゃん(右:愛子)と母の姉。

黒柳塗装店は、治三郎爺様が初代です。

おかね婆は織物工場に勤めていて高い給料をもらっていたそうで、治三郎爺は1人で塗装の仕事をしながらも、どちらかと言うと遊んで酒を呑んでいるイメージの方が強かったようです(母曰く)

イナセないい男だった治三郎爺は、女遊びも激しかったようで・・・おかね婆、苦労しましたね。。

塗装の仕事は当時、自転車にコールタールやクレオソートを積み、住宅の屋根や壁を塗っていました。

ペンキがまだ高価だったため使われていた真っ黒なコールタールは、ペンキの代わりにトタン屋根にも塗れ、トタンとの密着がとても強いのですが、直射日光に当たる場所の塗膜の寿命は2〜3年のようで、日陰なら5年は持ったようです。そして、木部には素晴らしい防腐効果がありますが、発がん性物質を含んでいたり、乾燥時間が遅い・臭いなどの特徴があり現代では一般に使われません。

強力木材防腐剤のクレオソートは臭いは若干強いですが、昔から木材の防腐剤として使われていた油です。今でも雪の多い地域や湿気の多い地域での需要があるそうです。

当時は、木とトタンの建物が多かったんですね。

そして、そのころに愛子婆ちゃんのところに婿に来たのが、愛子婆ちゃんより5つ年下の五男爺ちゃん(二代目)でした。 
愛子婆ちゃんは最初の旦那様を戦争で亡くしたんです。

二代目

手前の右にしゃがんでるのが五男爺ちゃん。
隣りに座っているのが、現在もお付き合いのある塗料屋さんです。

15歳で予科練に入隊した五男爺ちゃん、回天特攻隊として人間魚雷に乗る直前に終戦したそうです。
下の写真の、白い服を着ているのが五男爺ちゃん。

戦争から帰ってきて家の農業を少し手伝った後、郵便局に入社しました。


当時、愛子婆ちゃんは洋裁店を営んでいました。

働き者で、とても面倒見のよかった愛子婆ちゃん。
近所の子沢山の八百屋の子たちにほぼ毎晩ごはんやお風呂を世話してあげ、自分は夜遅くまで洋裁の仕事をしたあと、お湯の少なくなったドロドロのお風呂に入っていたそうです。
また、家にテレビがあるほうが珍しい時代だったので、相撲やプロレスが始まると集まる近所の人たちを快く受け入れていました。

五男爺ちゃんと愛子婆ちゃんは一生懸命働き、母たちが通う松葉小学校にテレビを寄付した事もあるそうです。当時から社会貢献していたんですね。

洋裁の先生だった愛子婆ちゃんは、とてもお洒落でハイカラでした。


写っている人物は、婆ちゃんと幼少時代の母たち。男の人は叔父さんらしいです。。

後ろの建物が洋裁店です。マネキンがありますね。

お針子さんを何人も抱え、こちらもかなり繁盛していたそうです。
お針子さんは若い女の子が多く、通りに面していた店なのでよく男の人たちが覗いていました(笑)

この洋裁店の前を毎日通り郵便局に通勤していた五男爺ちゃんもそれにもれず、初めは若くて可愛いお針子さんが目当て覗いたり話しかけたりしていたのですが、いつの間にか愛子婆ちゃんと親しくなり結婚することになったのです。

はじめ、25歳だった愛子婆ちゃんは、20歳のスーツに着られている感じの坊ちゃんチックな郵便局員は全然好みじゃなかったのですが、あるとき五男爺ちゃんが自分の家の農作業をしている姿を見てカッコイイと惚れたそうです。

五男爺ちゃんの家族からは、五男は年増の子持ち女に騙されてる!と大反対されたようですが(笑)



この頃は、一枚目の写真、黒柳塗装店の看板の下は大部分が洋裁店で、塗装屋は横のほうに小さい入口があったことからわかるように、洋裁店が主だったようですね。

五男爺ちゃんがペンキ屋に入ったころは、治三郎初代と五男爺ちゃんともう一人の職人さんの三人でした。自動車なんてないので三人で自転車で現場をまわっていたそうです。


その後の昭和40年頃、建物を建て直しタイル張りになりました。木造の風が吹くとガタガタ揺れる家はとても怖かったという愛子婆ちゃん念願の鉄筋コンクリート造りです。

地下にペンキの倉庫、1階が洋裁店、2階が自宅でした。奥の建物にも黒柳塗装店と書いてありますので、そちらが塗装屋本社という事でしょう。

会社として仕事がなくて困っていた時期でも、五男爺ちゃんは職人さんたちに出勤させ、農家である実家の畑を手伝わせたり、倉庫の掃除をさせたりして賃金を払っていました。
当時職人だった人の息子さん(現在は二代続けて職人をしてくれています)に聞くと、「あの頃、塗装の仕事がないのにちゃんと出てこさせて金をくれたおかげでワシら子供が育ってこれたんだ。ほんとに感謝している。」と言っていました。
昔から会社の利益より、職人さんの生活を大切にしているのですね。
親子二代にわたっても、黒柳塗装店で職人をしてくれている方たちが多いわけです。


それから職人さんも増え、黒柳塗装店も大きくなり、本社はこの場所で倉庫は現在の黒柳塗装店がある小向町に移りました。

この頃は、木造の学校が全国にたくさん建設され、その塗装に四国までも行っていたそうです。当時は塗装屋が少なかったため、大忙しだったのです。


そして、昭和45年、母と父が結婚する頃、この会社兼自宅を人に貸し、小向町に引っ越してきました。

下の写真が自宅です。この裏に会社と倉庫があります。

庭いじりの好きだった愛子婆ちゃんは、よく庭の手入れをしていました。 まわりは何もないですね・・

当時の会社はこんな感じです。


小さかった私は、倉庫に入いり、珪砂の袋を破ってペンキと混ぜたりしてままごとに使い遊んでは怒られていました。

三代目:現社長


母のところに婿養子に来た父光雄(三代目現社長)の若かりし頃の現場写真が1枚だけ出てきました。
看板の裏にいるのが父ですが・・

たのしそうに遊んでますね・・

でも実は、私が生まれて間もないころ、黒柳塗装店に入って2〜3年頃でしょうか、気の荒い先輩職人にかなり苛められていたそうで(どこまで耐えれるか、すぐ辞めるだろうと)近所の豊川の堤防を赤ん坊の私を抱いて散歩しながら、何度もこのまま逃げ出したいと思っていたほど辛かったそうです。

当時の職人さんは刺青が入っているような方が多かったのですが、仕事に対しては厳しく『ペンキの1滴は血の1滴だ』と教えられ、材料も道具も大切に扱っていました。

とは言っても、毎日の現場仕事と毎年の親睦旅行で次第に認められていった父。

五男爺ちゃんが70歳を過ぎてやっと社長交代するまでも、ずっと専務として会社の中心となりみんなをまとめてきました。社長交代した後もそのまま社員さん・職人さん・お得意様を引き継いだことからも、父の人望の厚さを感じます。

そんな父光雄は、静岡県富士市にある 『株式会社 中村塗装店』の5人兄弟の4番目次男。愛子婆ちゃんのいとこで、もともと母とは親戚関係だったのです。

絶対ペンキ屋にはなりたくないと思っていたようですが、なぜか25歳でペンキ屋の娘と結婚して跡を継ぐことになってしまいました(笑)

ペンキ屋になりたくなかった父光雄は、勉強して違う仕事に就こうと思っていたのですね。
高校生のとき通信教育でデザインを学び、夏休みに友人と商店街の垂れ幕看板や店内チラシを請け負って商売をしたり、家族に隠れこっそりと猛勉強し、名古屋の名城大学理工学部機械科に入学。

在学中には1年休学し、独りでソ連〜ドイツ〜ヨーロッパ〜インド〜アジアと貧乏旅行に行きました。旅行先でできた仲間の話、盗賊に襲われたり、バイクで崖から落ちた話など今でも話し出すと止まりません。

そして、大学を卒業した父は大阪が本社の松下工業という会社に就職しました。
本社で2か月研修した後、名古屋支店に勤務となり、機械設計をしていた父。新しい機械の設計で新人賞まで取ったのですがその直後、まだ入社して1年だったそうですが、結婚のため退職しました。

入社時には考えていなかった母との結婚、1年の間に決まってしまったのですね(笑)

会社を辞めると言い出した父を、本社の専務が家にまで呼んで引き留めたそうですが、最後にはカーネギーの本をプレゼントして塗装屋を頑張れよと送り出してくれたそうです。


これは、昔から、友人を自宅に呼んで宴会するのが好きだったことが窺える写真です。 真ん中の黒いのが父光雄です。
今でも父と母は、毎年多くの友人を招いて、春の花見と秋のボジョレーの頃ホームパーティーを開いています。

私が宴会好きなのはこの血なんですね〜

両親は、親戚たちと一緒にあちこちに旅行に連れて行ってくれました。
私が小学生のころは毎年年末年始に栂池高原にスキーに。


といっても、お盆とお正月にしか休みの無かった父、普段は日曜日もなく仕事一筋でした。
何度、『今度の日曜日は動物園に行こう!』の言葉に期待して裏切られたことか・・・
 
自分の家族のためだけじゃなく、俺は社員や職人とその家族を養わなきゃいけないんだといつも言っている父。

年に2〜3回しか遊んでもらえませんでしたが、一生懸命仕事をしている父の背中を見て育った私は、完全なファザコンなんです。明るくて、周りに嫌な思いをさせないよう気を使って、仕事が趣味だという父が大好きで、父や五男爺ちゃんのことを係る人全員が「ほんとにいい人だよね〜」というのを聞くたび自慢に思います。

最近になって、やっと日曜日に休みが取れるようになり、母と日帰りの温泉を楽しんでいる、平成25年現在、66歳の父。
まだまだ現役で、代表として頑張ってくれています。

私たちがまだ頼りないので引退できないんですよね。
70歳になったら、半分引退できるよう、計画性をもって継承していきたいと思っています。

そんな私の物語を少々。

長女:友理


地元豊橋の高校を卒業後、母も通った東京の女子美術短期大学に進学。やりたいことをやれせてもらっていた時代です。
短大では洋服のデザインを(今思えば愛子婆ちゃんの血ですね)、習い事ではフラワーデザインや彫金・油絵を学んでいました。

その後、豊橋に帰ってきて地元企業にOLとして就職。この時期が一番遊んでいました(笑)遅くに帰って父にぶっ飛ばされたことが1度・・(人生で2回しかありませんが) この時は、父が寝静まった頃を見計らって物をぶつけて反撃し、さらに説教された覚えがあります。。

養子に来て塗装屋を継ぐと言ってくれた7歳年上の人と23歳で結婚し、24歳と25歳の時に長男長女を出産。

どうにも塗装屋でうまくやっていけなかった旦那とはもめごとが多く、28歳頃に別居・離婚。

それまでは、旦那に会社を継いでもらい私は母のようにお金だけ管理しお稽古ごとをして楽しく奥様をしようと思っていましたが、別居を期に、自分が跡取りとして頑張ろうと、子供たちを保育園に預け、塗装現場に出ることにしました。

朝7時半には保育園に送り、職人さんと一緒にトラックで現場へ。

汚い恰好+ヘルメット、さらに身長が高いので、二度見され「あれ?女の子かん?」と何度言われたか(笑)

熱中症になったり、かぶれたりしながら作業し、夕方17時半ころ保育園にお迎え。
帰って、夕食の支度、子供のお世話。
ついでに、保育園の母の会会長や離婚裁判、子供会、小学校PTAなどもやっていったので、仕事半分子育て半分の中途半端な感じで34歳まで過ごしてきました。



平成17年に、母が豊橋市内に岩盤浴サロン『岩盤浴セレニテ』を作りました。
気合いを入れて始めた割に1年半でやめると言い出した母、もったいないし私の好きなように経営できるので勉強になると思い、塗装店の仕事を中断し私が引き継ぐことにしました。

料金やシステム・スタッフを変え、新しく岩盤ヨガやエステを始め、現在7年目を迎えています。

岩盤浴の仕事だけをしている頃、一度父が体調を崩したことをきっかけに、私は本業の塗装店に戻ることにしました。3年程前です。

それからは、朝から夕方まで塗装の仕事をしている間は岩盤浴をスタッフに任せ、塗装の仕事のあと夕方から夜22時まで岩盤浴仕事をしています。


岩盤浴では、お客様がどうしたらこの空間・この時間を気持ちよく過ごせるか考えてきました。
髪の毛1本・水滴1つないように綺麗を保ち、椅子の角度、アメニティの位置、玄関のお花に気を遣い、お客様との会話を大切にしてきました。その甲斐あって、お友達や家族を連れてきてくれたり、常連となって通っていただいています。

そんな『おもてなし』を塗装現場にも持ち込み、ただ塗れば良いだけでなく、女性目線でのサービスを取り入れ、『塗装と言えば黒柳』『黒柳に頼んでよかったと』一人でも多くの方に言ってもらえるよう頑張っています。

さらに、平成13年に入会した『愛知中小企業家同友会』では経営を学び、今年平成25年には『塗魂ペインターズ』に仲間入りさせていただき、塗装ボランティアを通じ社会貢献できる会社を目指しています。

大正14年から続く黒柳塗装店が、その信頼と経験の上にさらに進化して地域に必要とされ続ける会社であるためにはどうしたらいいのか。

祖父や父たちが築いた基盤・信用をさらに固め、社員さんや職人さんたちと一緒にやりがいをもって成長できる会社でありたいと思っています。



そして、これが今の事務所。

一つ下の妹も出戻ってきて3年。会社の経理を担当しています。
妹の婿殿(近日入籍)は、黒柳塗装店に入る前に現在関連会社で防水工事の修業中。

先日、平成25年3月、黒柳塗装店で世話になったと言ってくれるOBたちが、爺ちゃんの元気なうちにと『OB会』を開催してくれました。現在はホームで暮らしている爺ちゃん86歳。同じことを何度も話す程度には軽くボケていますが、手押し車で自分で歩けるくらい元気です。

OB会には、昔からのお付き合いのある塗料屋『守田屋塗料梶xさんも参加。

こういうのを見ると、つくづく、祖父も父も本当に職人さんや業者さんを大切にしてきたんだなと思います。

私たちもその心をしっかり引き継いで、
これからも お客様に選ばれ必要とされ続ける、地元密着の100年企業を目指して頑張りますので、どうぞよろしくお願い致します。

下手な長文を読んでいただき、ありがとうございました!
                                    長女:友理 平成25年5月

株式会社 黒柳塗装店

〒441-8003
愛知県豊橋市小向町字北小向62

TEL 0532-31-8035
FAX 0532-31-9132
メール info@kuroyanagi.jp